【108】京都の秋 2006 その1            2006.12.02


  - 三千院・曼殊院・詩仙堂・圓光寺、圓徳院 -



 イスラエルの24才「ヨニィ」くんを案内して、京都の秋を訪ねた。ヤスエと滋子さんという、2005年版ハワイ旅行の面々がご一緒である。


  ヨニィくん。これで24才、おっさんみたいだけれど、話してみる
 と、とても真面目でかわいい。日本へ来て2年、日常の日本語はペラ
 ペラ、日本文化大好きで、何にでも興味を示す好漢だ。     →





 ヨニィはふらりと日本にやって来て、今はある団体で日本人相手に英語の指導をしている。ヘブライ語のイスラエル人なのに、何ンで英語が得意なのかというと、お母さんがアメリカ育ちなのである。ユダヤの人たちは、ホントにインターナショナルである。


← 三千院の中庭 【拡大】




 天台宗五箇室門跡のひとつ三千院は、天台開祖の最澄が比叡山内に修行のための庵を結んだのが、その発祥である。以来、戦火や天災を避けて滋賀県の坂本など様々な場所を転々としたが、応仁の乱のころ現在の地に移された。梶井門跡などと呼ばれて大原の寺院を管理統括してきたが、明治4年、三千院の名称が定められた。


              往生極楽院 【拡大】 →


 その中心的な位置にある往生極楽院は、平安時代の寛和2(986)年、恵心僧都が父母の菩提を弔うために建立したと伝えられる。もともと天台声明(仏教音楽)の修行の地であった、ここ大原の御堂であったが、三千院が敷地を広げていく中で、その境内に位置することとなった。
 間口三間、奥行き四間の小さなお堂に祀られた阿弥陀三尊(国宝)のお姿は、極楽浄土の神々しさに包まれている。船底天井は、かつては極彩色の天上世界が描かれていたのだけれど、長年の間にチリやススがついて真っ黒け…。近年。紫外線スコープなどを駆使して原図を調べ、再現したものを別館に展示している。
 杉木立の中に建つお堂の写真は旅行案内書等にしばしば使われていて、大原のシンボルともなっている。


   
往生極楽院の船底天井の絵の復元画 【拡大】

 

 八瀬大原は洛北の地だから、京都の市内よりも冷え込みは厳しく、三千院の紅葉もすでに終盤…。それでも、シーズン最後の土曜日のこの日は、たいへんな人出であった。
 人ごみの中でも、ヨニィの好奇心は怯むことなく、ご本尊薬師如来(秘仏)をはじめ不動明王像や下村観山・鈴木松年らの襖絵、江戸初期の茶人金森宗和作の庭園など、目にするもの全てに興味を示して、片っ端からカメラのシャッターを切り、足が前に進まない。彼は、日本文化大好きイスラエル人なのである。


↑ 三千院境内の歩経路 【拡大】


     三千院から下る道の途中に 傘屋さんがあった →

  

 額縁庭園で有名な玉泉院へ向かう。



← 玉泉院の五葉松


 植木屋さんが手入れしていた。葉の間から、ひょこ…ひょこ…と顔を出す。その数、6人。【拡大】

   

      
← 額縁庭園 →
  【拡大】


←五葉松の根っこの部分を額縁で見たところ(南面)



 竹林の間から八瀬大原の里を望む(西面)→


大原をあとにして、一乗下がり松の曼殊院へ向かう。


 曼殊院は伝教大師(最澄)の創建で、もとは比叡山の西塔北谷にあって東尾坊と称した。平安時代に曼殊院と改め、江戸時代の明暦2(1656)年に現在地に再興された。
 今の曼殊院は桂離宮を造営した智仁天皇の子、良尚親王が造営したもので、桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築といわれている。


 
↓白壁とモミジの紅の対比が美しい【拡大】




 横手にある弁天茶屋でお昼を食べるつもりが、昼時なので1時間以上の待ちとのこと。予約表に名前を書いておいて、曼殊院の拝観へと向かった。

     










        
曼殊院の庭園 【拡大】


 庭園は、大書院を舟、白砂を水の流れに見たて、静かに水面をさかのぼる大舟を表現している。鶴をかたどった五葉の松、霧島のツツジや、さらには常緑の杉と色を変える楓たちが建物と調和して、四季おりおりにさまざまな趣を見せる。
 庭に置かれた「梟(ふくろう)の手水鉢」は、中秋の名月の頃の月光を反射して、書院の欄間の月の字くずし・卍くずし・菊花紋といった文様を奥の壁に映したり、天井に第二の月を宿らすという趣きがあるそうだ。
 禅のこころと王朝風の趣向を融合させた枯山水の庭の見事さは、四季それぞれの味わいで定評のあるところだが、この時期の紅葉はまた格別の景観であった。
 人混みに押されて、文献などの前でゆっくりと立ち止まっていることも出来ず、藤原定家筆の「古今和歌集」(国宝)を見られなかったのは、残念…。


 1時間ほど寺内をめぐったのち弁天茶屋へ行ってみると、まだ7~8組の待ちであった。なお30分近く待って、やっと「ニシンそば」にありついた。ヨニィは「山菜そば」…、章くん以上に日本的なイスラエル人である。


 次の詩仙堂へは歩いていけばよかったのだが、車で向かったので、駐車場を探すのに戸惑った。とにかく近くまで行ってみようと、住宅地の中の細い道を観光客をかき分けながら上っていくと、山門の真ん前の駐車場が空いていた。




← 【拡大】 詩仙堂の庭園 【拡大】 ↓


















 詩仙堂(しせんどう)は、京都市左京区にある史跡。徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘である。


 現在は曹洞宗永平寺派の寺であり、丈山寺が正式名称。詩仙堂という名前の由来は、房内にある中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間にちなんだもの。三十六詩仙は日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見を求めながら漢晋唐宋の各時代から選んだとか。肖像は狩野探幽によって描かれ、詩仙の間の四方の壁に掲げられていた。

 詩仙堂は、もとは凹凸窠(おうとつか)という。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、確かにこの房の建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。丈山は、詩仙の間を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。
 庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができるが、特に春(5月下旬)のサツキとともに、秋11月下旬のこの時期は、紅葉を訪ねる観光客で賑わう。鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっていて、「ししおどし」と呼ばれて知られる仕掛け「添水(そうず)」が、この日も典雅な音を響かせていた。
 造営は寛永18(1641)年、丈山59才の時に行われ、彼は90才で没するまで、ここで清貧を旨とし、聖賢の教えを実として、風雅の道を楽しんだとある。
 清貧…? これだけの大庭園を造って、なお清貧と言うか。

  
 詩仙堂から徒歩3分…、圓光寺は江戸時代、圓光寺版という刷り物が見られるほど学問の盛んな寺であったことはよく知られているが、寺が一般公開されたのは最近のことである。

 寺内には、牛飼いが牛を見つけて飼い慣らすが、最後にはまた野に放つという一生を、10枚の絵に描いて禅の悟りを教える「十牛の図」が掲げられている。それにちなんで、十頭の牛を表す十個の庭石が置かれている「十牛の庭」は有名で、この日も散り残ったモミジが秋の日差しを浴びて輝いていた。


← 庫裏の前の大カエデはすっかり
 葉を落としていたが、  【拡大】
  【拡大】 十牛の庭の紅葉は いまだ艶やかであった。 ↓








































  

 平安神宮横の茶房でコーヒーにケーキを摘んだあと、高台寺のライトアップへ向かおうと東大路を南へ下ったのだが、渋滞で車はほとんど動かない。
 宮川町あたりで駐車場を見つけようと町中へ…。前を通った南座の今年の顔見世興行は勘三郎の襲名公演で、まねきが掲げられていた。

                
← 南座顔見世のまねき 【拡大】

  

       

 今では東山の観光スポットとなった「高台寺」も、長い間一般公開はされていなかった寺である。章くんたちが子どものころは、京都の人さえもその名を知らなかったという寺であるが、近年では観光コースに欠かせない寺となった。
 この夜も、夜間拝観に集まった人は、高台寺の山門から駐車場を蛇行し、階段を降りて、下の一般道まで続くという、たいへんな人出であった。


       
高台寺の階段上から、建仁寺の五重塔をパチリ →
              
(ケイタイで撮ったものです)
  



 その列の長さに恐れをなして、高台寺へ入ることを諦めた章くんたちだったけれど、それでもなおライトアップの妙をヨニィに見せてやりたいと、圓徳院に向かった。こちらは予想外に並ぶこともなく拝観でき、ライトに浮かぶ紅葉の美に、ヨニィも満足気であった


← 圓徳院 北庭のライトアップ 【拡大】



 


← 圓徳院内に展示されていた ねねの内掛け。 【拡大】
 誠にあでやかで、刺繍の豪華さには目を見張らされた。



 慶長8(1603)年、北政所ねねは後陽成天皇より「高台院」の号を勅賜され、寺院の建立を発願、その名も号にちなんで高台寺と決められた。
 慶長10年、徳川家康の援助を得て着工、翌11年に落慶、ねねは76歳で没するまでの18年間をここで暮らした。
 円徳院は、ねねの弟、木下家定の居館で、北政所の警護のための武家屋敷であった。今日でも長屋門が当時の趣を残している。後に家定の次男利房が自らの号をとって寺院としたものである。
  

  



圓徳院境内にある
京洛市「ねね」の
店々 【拡大】



「京・洛市ねね」は、圓徳院境内、清水寺から祇園円山公園まで東山の歴史と文化の道を南北に石畳で結ぶ「ねねの道」から、土塀をくぐって、ねねの小径(こみち)の「あられこぼし」の路地を回遊していく商店街である。ショッピングと喫茶・食事、散策を楽しめるホットゾーンだ。


 ヨニィは、日本に住んで大学へ通うことが出来る奨学金を受けるための勉強をしているンだと言っている。来年4月にイスラエルに帰って、その試験を受けるそうだ。
 見事にクリアしてまた日本に戻ってくるよう、僕も日本についての理解の一助になればと、「一宿一飯」を教えておいた。「懇切丁寧に京都を案内してもらった恩義には、命を賭けて報いなければならない」と…。

                                
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